2009年06月16日

薬剤の分類や呼び方は少々の混乱が生じている

薬剤の分類や呼び方は少々の混乱が生じている。専門家における呼称と一般に広く用いられる呼称も異なったまま慣用されている。

花粉症はアレルギーであるため、その治療に用いられるものは抗アレルギー薬といえる。それらは薬理作用により以下のように大別できる(広義ではステロイド薬をも含めて抗アレルギー薬と考えることもある)。

肥満細胞からのケミカルメディエーター(化学伝達物質)の遊離を抑えるもの(ケミカルメディエーター遊離抑制薬。肥満細胞安定薬とも)
遊離された後のケミカルメディエーターの作用を阻害するもの(抗ケミカルメディエーター薬:抗ヒスタミン薬、抗プロスタグランジン・抗トロンボキサン薬、抗ロイコトリエン薬など。受容体拮抗薬とも)
専門的には、1. の遊離抑制作用のみを抗アレルギー作用と呼ぶ。よって、1. の遊離抑制作用のある薬のことを抗アレルギー薬と呼ぶ。これは、初のケミカルメディエーター遊離抑制薬であるクロモグリグ酸ナトリウムのことを、ヨーロッパの一部において抗アレルギー薬( anti-allergic drug )と呼んだことに由来している。

しかし、遊離抑制作用を持つものを抗アレルギー薬と呼ぶと定義すると問題が生じることがある。抗ヒスタミン薬の中には、抗ヒスタミン作用の効果だけでなく、ケミカルメディエーター遊離抑制薬およびケミカルメディエーター遊離抑制作用を持つもの(これを第二世代抗ヒスタミン薬と言う。)があり、第二世代抗ヒスタミン薬も抗アレルギー薬に含まれるという分類になる。患者向けとして広く一般に用いられている呼称はこれが多く、第二世代抗ヒスタミン薬は抗アレルギー薬として普及してしまっている。一方、ケミカルメディエーター遊離抑制作用のない第一世代抗ヒスタミン薬は、単に抗ヒスタミン薬と呼ばれることが多い。
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妊婦さんの豆知識
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スノーモービル
心臓病
脚本
腎臓病
光学
陶芸
ボランティア
ブーメラン


こうした薬剤の分類や呼び分けは、医師・研究者や治療する疾病の分野によってやや異なることがある。一般向けに出版されている書籍での説明や、インターネット上の花粉症・アレルギーの説明を行う各種サイトによっても、微妙に異なる場合がある。たとえば、第二世代抗ヒスタミン薬をさらに細分化し、第三世代とのカテゴリーを設ける医師・研究者もいる。

過去にケミカルメディエーター遊離抑制薬(抗アレルギー薬)のことを体質改善薬ということがあったが、抗ヒスタミン薬とは作用機序が異なる事実においてそのように呼ばれただけであり、いわゆるアレルギー体質は改善されない。アレルギーの発症を予防する効果もない。便宜的に患者に対してそう説明されることがあるというが注意が必要である。

薬物の特徴 [編集]
古い第一世代抗ヒスタミン薬は抗コリン作用が現れやすく、実用上では口が渇いたり眠気などの副作用が強い。一方、新しいタイプの第二世代抗ヒスタミン薬は、そうした副作用などが現れにくい。
上述のように第二世代抗ヒスタミン薬は、ケミカルメディエーター遊離抑制作用(抗アレルギー作用)がある。
第一、第二を含めて「症状を抑える」という対症的な治療効果であり、根治薬ではない。

薬物作用 [編集]
抗ヒスタミン作用(効果)
肥満細胞から遊離したヒスタミンが、神経や組織にある受容体に結合するよりも前に、その受容体に結合してしまう作用である。すなわち、鍵穴に鍵が差し込まれる前に、鍵穴をふさいでしまう作用といってよい(ただし、近年は受容体の活性を落とす作用がその主要な効果であると考えられている)。一般にきわめて即効性がある

2009年05月30日

武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。

武士団の成立には、国司や目代として下向した後土着した、旧受領層が大きく関わっている。彼らはその官位を支配のよりどころとして、自らの勢力を拡大した。武士勢力が成長すると、権力者はこれに官位を授け自らの支配下に組み込もうとした。官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても権威としての威力を持っていたために、武士の序列を明確化する目的でも使用された。しかし同時に、武士に対する朝廷の支配を表すものであった。

武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化され、室町幕府もこの方針を踏襲した。
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戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏のケースが増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その主な例として、大内氏が少弐氏に対抗するために大宰大弐を求めたケース、織田信長の父織田信秀、今川義元そして徳川家康が三河支配のため三河守に任ぜられたケースなどがある。

一方この時代には、朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つである[1]。また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つと考えられる。

豊臣秀吉が公家の最高位である関白として天下統一を果たすと、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の高位への任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。その結果、大臣の任用要件を有する公家が不在となってしまい、秀吉が死去した際(1598年)には、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。また秀吉は同じく海外志向であった武将の亀井茲矩の申し出に対し、律令に無い官職である琉球守(現在の沖縄)や台州守(現在の中国浙江省台州)のユニークな名乗りを許している。これは厳密に言えば朝廷にとって由々しき事態であったが、秀吉の海外進出が挫折すると亀井の名乗りも国内官職へ回帰した。

2009年04月27日

4カ国に分割占領された

ポーランド侵攻作戦の直後、ポーランドはナチス・ドイツ、ソヴィエト連邦、リトアニア、スロヴァキアの4カ国に分割占領された。ドイツは占領した東部ポーランド領の一部をドイツ本土に併合し、残りの占領地域をいわゆるポーランド総督府領として支配した。ソヴィエトは西部ポーランド領をウクライナ共和国と白ロシア共和国に編入、リトアニアはヴィリニュスを、スロヴァキアは前年のミュンヒェン会談によりポーランドに割譲されたテッシェン地方を再び自国領に取り戻した。

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このようにしてポーランドはおもにドイツとソ連に分割され、ドイツ軍とソ連軍はポーランドの土地において互いを迎えあった。9月28日、前月に締結されたモロトフ・リッベントロップ協定の秘密議定書を修正する新しい秘密議定書がドイツとソ連の間で交わされ、リトアニア領全域をドイツでなくソ連の支配下に置くこと、ポーランドを分割する境界線はドイツのために東のブーク川まで移動することが決められた。ブレスト=リトフスク(現ポーランド名ブジェシチ)市では、ドイツ軍が新しい独ソ境界線の西へと撤兵する前に、ソ連軍とドイツ軍の両軍が勝利パレードを行った。

ポーランド侵攻では約65,000人のポーランド兵士が戦闘の犠牲となり、約680,000人が捕虜にされた(そのうちドイツ軍はとソ連軍はそれぞれ少なくとも420,000人、240,000人を捕虜にした)。ポーランド将兵のうち約120,000人はルーマニア橋頭堡と呼ばれる地域を通って当時中立国であったルーマニアとハンガリーへ脱出し、約20,000人はラトビアとリトアニアへ脱出した。脱出に成功した将兵の大多数は最終的にフランスやイギリスへ渡った。ポーランド海軍艦艇のほとんどはイギリスへうまく抜けることに成功した(北京作戦Plan Peking)。ポーランド軍に対してドイツ軍の犠牲は比較的少なかった(戦闘での死者数は約16,000人と見積もられている)。しかしその一方でポーランド侵攻作戦に参加した戦車などのドイツ軍装甲戦闘車両の30%以上が失われたのも事実で、これが理由でドイツは西欧諸国へ即時攻撃する計画を放棄せざるを得なかった。

ドイツ、ソ連、ポーランドの西側同盟諸国のどの国も、ポーランドで行われた戦争が規模においても被害においても第一次世界大戦を凌駕する大規模な戦争につながるとは予想していなかった。1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、ヒトラーはフランスなどの西側諸国を攻撃しようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスとフランスとの平和交渉がもはや無益だと判断するまでは数ヵ月かかった。日本がヒトラーと同盟してアメリカを攻撃したり、ソ連とアメリカがヒトラーと日本に対抗する同盟を結んでヨーロッパと太平洋それぞれにおける戦争が結合し本当の世界大戦にまで発展するのは何年も先の話だった。1939年当時の政治家や将軍たちには見通せなくても歴史的にみれば明らかなことは、このポーランド9月戦争(ポーランド侵攻)こそがヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりであり、それが1937年に始まった日中戦争や1941年に始まった太平洋戦争と結びついて、後に本当の意味での第二次世界大戦として知られるようになった大戦争に発展していったことである。

2009年04月10日

バロック・ヴァイオリン

バロック・ヴァイオリン(baroque violin)は、ネック、指板、駒、テイルピースがバロック時代の形状のヴァイオリン。

人により様々な定義があるものの、「バロック・ヴァイオリン」といえば、バロック時代に製作されモダン・ヴァイオリンに改造されていないもの、又は現代におけるそれらの複製、もしくは古い楽器をバロック様式に改造あるいは再改造したもののいずれかを指す。

モダン・ヴァイオリンとは、現代に製作されたヴァイオリン、もしくは現代の形状になる前の時代のヴァイオリンを、現代の形状に改造したものを指す。バロック時代に製作されたバロック・ヴァイオリンにも、その性能が大劇場、大音量といったロマン派以降の音楽文化に比較的対応可能だったために、モダン・ヴァイオリンに改造されたものも多い。アントニオ・ストラディバリの楽器などもこれに含まれる。古典派時代の形状のヴァイオリンはクラシカル・ヴァイオリンと呼ばれる。

バロック時代の習慣に倣って、多くのバロック・ヴァイオリン奏者はガット弦を使用している。これにより幾分か純粋で時に素朴な音色となる。倍音が多く含まれており、アンサンブルにおいて他の楽器と調和しやすい。近年は、顎当と肩当を装着する奏者も増えつつあるが、ほとんどのバロック・ヴァイオリン奏者は、バロック時代にはまだ発明されていなかった、顎当や肩当を附けずに演奏する。モダン・ヴァイオリンの演奏においては、顎当や肩当により楽器をしっかりと固定するが、それがないことで、自由度が高く緊張のない自然な体勢をとることができる。バロック・ヴァイオリンは、モダン・ヴァイオリンより前方に位置することになり弦は鎖骨と垂直に延びる。これは演奏者の弓を持つ手の位置にも大きな影響を及ぼし、モダン・ヴァイオリンでは困難であったり、比較的不自然であったりするアーティキュレーションも容易になる。

その他、モダン・ヴァイオリンと異なる点として、バスバー(胴体部分の内部に縦についている棒)が小さいこと、駒の下部が比較的薄く上部が比較的厚いこと、指板が短いこと、ネックが太いこと、アジャスターがないこと等がある。しかし、最も重要な違いは弓である。モダン・ボウ(モダン・ヴァイオリンの弓)の形状が「Σ」の字に中間部が凹んだ曲線を描く一方、バロック・ボウ(バロック・ヴァイオリンの弓)は直線形であるか、又は中間部が少し膨らんだ曲線である。これは弓の毛の張力が弱いことを意味する。

ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

2009年03月27日

ママチャップトイ

ママチャップトイは東京池袋にあるドールショップ。愛称は「ママチャ」。 着せ替え人形や人形用の衣装を販売している。

一時期、セクシー系の着せ替え人形を主に扱っていたことから、「アレゲなショップ」の印象が強い。

マーミット製オリジナルドールを主に販売していたが、2005年1月に自社製(ヘッドのみ。ボディはオビツ製)のオリジナルドール「うさ美ちゃん」を発表。年々バリエーションを増やしている。

生産数が少ないため、期間限定の受注生産方式をとっているが、予約が急増すると受注期間内であっても受付が打ち切られる場合がある。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

2006年6月17日よりオリジナルドールの製作等に専念するためとして、実店舗の店頭販売が中止され、通販のみを取り扱っている。

製品 [編集]
女忍シリーズ(27cmサイズ)
まりんちゃん(27cmサイズ)
カレンちゃん(27cmサイズ)
カプコンアクションドールコレクション(27cmサイズ)
うさ美ちゃん(27cmサイズ)
ね子ちゃん(27cmサイズ)
ちっちゃなもこちゃん(23cmサイズ)
双子のひなちゃん ひよちゃん(23cmサイズ)
みるく?(60cmサイズ)
ちっちゃな男の子 乙女いおり(23cmサイズ)
ちっちゃな男の子 蒼月ろう(23cmサイズ)
みやび?(60cmサイズ)
ねね?(60cmサイズ)
ちっちゃな女の子 ちぃちちゃん(21cmサイズ)
ちっちゃな女の子 なぁなちゃん(21cmサイズ)

2009年03月11日

モンテ=アルバン

モンテ=アルバン(Monte Albán)は、メキシコ、オアハカ州のオアハカ盆地中央、オアハカ市街の西方10km、盆地の「底面」からの比高差400mにある山の頂上を平らにして築かれたサポテカ文化の中心をなす祭祀センターである。紀元前500年頃から紀元800年頃まで繁栄した。後古典期には、ミシュテカ族に支配された。メソアメリカ文明を考える上で非常に重要な考古遺跡であって、1987年に世界遺産にも登録されている。遺跡全体のひろがりは42km2に及ぶが、中央広場をかこむ東西200m、南北300mの範囲に主な神殿や、天体観測所(建造物J)、球戯場などがある。

モンテ=アルバンは、周囲との比高差400mの小高い山の上という立地条件から、農業用水や飲み水の確保に向かず、大部分の食料は輸入に頼らざるを得なかったと思われるが、一方で、盆地を一望できる天然の要害に位置し、オアハカの三つの小盆地を結びつける交通の要衝でもあったと考えられる。このことから、かつては外敵に対してオアハカ盆地の諸センターが連合し、盆地中央に中立的な「新首都」を建設したと考える研究者もいた。また、このような小高い山の上に祭祀センターを築いたのは、サポテカの人々にとって山が宗教的に神聖で重要な場所であったことを意味しているとも考えられるが、現在は、モンテ=アルバンが建設される直接の契機になったのは、先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地の勢力争いの激化であると推察されている。というのは、モンテ=アルバンが建設される直前の時期にそれまでは盆地の底に集落が築かれていたのが、丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設されるようになることが判明してきたからである。

勢力争いの中心になるのは、モンテ=アルバン建設直前の最大の祭祀センターである盆地北部のエトラ(Etla)谷に立地するサン=ホセ=モゴテ、盆地東部のトラコローラ(Tlacolula)谷地域の勢力、盆地南部のバジェ=グランデ(Valle Grande)又はサアチラ(Zaachila)谷地域の勢力であった。後二者が、サン=ホセ=モゴテに対抗して、モンテ=アルバンを築いたという説と、逆にトラコローラ、バジェ=グランデ連合に対抗してサン=ホセ=モゴテがモンテ=アルバンを築いたという二つの説が考えられている。

サン=ホセ=モゴテをはじめとするオアハカ盆地の遺跡を長年にわたって調査してきたマヤ文明の諸都市の関係についての研究で世界的に知られているジョイス=マーカス(Marcus,Joyce)と夫君ケントV.フラナリー(Flannary,Kent V.)は、後者の説を支持している。その理由として、モンテ=アルバンIa期の土器様式、建築様式、暦、文字体系は、直前のロサリオ期の様式を受け継いだものが多く、また、後述する「踊る人々(Danzantes)」の石彫は、サン=ホセ=モゴテ石碑3号の系譜を引くものであり、ペルーのチャビン文化の遺跡セロ=セチンと比較する研究者がいるもののメソアメリカには類例がないものであることが考えられる。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

現在残っている建造物は、古典期に相当するモンテ=アルバンIII期のものがほとんどであるが、中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」(Temple of the Danzantes)は、先古典期中期末から後期初頭の建造物で、神殿の周囲におかれた石彫には、あたかも踊っているように見える人物像「Danzante」や未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑も見られる。 「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、髭を生やした老人、切り落とした首だけになっているもの、恥ずべき裸の姿にされた証拠に性器の輪郭が刻まれたり、性器の切除が刻まれ、血が流れている場面まで刻まれている。これは、モンテ=アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。このような石彫を刻むことによってモンテ=アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、正当化する意味があったと考えられている。人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示しているのかもしれない。またマヤで用いられる260日暦(ツォルキン暦)365日暦(ハアブ暦)の祖形ができていたことが石碑に刻まれた碑文から判明している。

モンテ=アルバンI(前500年?前100年)、II期(前100年?200年)にかけて、都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。モンテ=アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。

モンテ=アルバンII期になると、天文台と考えられる建造物Jが建設され、その壁面には40以上の「征服石版」がはめ込まれている。「征服石版」には、人身御供になった人物や征服地または貢納を行なっていたと思われる地名が刻まれている。モンテ=アルバンII期の支配者は、140km圏内の町々を征服し、北方100kmのオアハカ盆地とテワカン盆地の中間点にクイカトラン=カニャーダ(Cuicatlán Canada)に前進軍事基地を築いた。

テオティワカンとの交流と繁栄
モンテ=アルバンIIIa期(200年?500年)には、南基壇の高さ15m長さ100m以上のピラミッドをはじめ中央広場の多くの建造物が築かれた。人口は1万6500人に達したと推定され、オアハカ盆地全体では、11万5000人に達したと考えられている。この時期の特徴は、テオティワカンを意識したタルー・タブレロ式の建造物が築かれ、南基壇の4隅にある石碑のうち、石碑リサ、石碑7号にテオティワカン人来訪の記事が浮き彫りで刻まれ、建造物Xからも両者の政治的な会合を記念したと思われる石碑が発見されている。テオティワカン人は、武装したり、兵士を伴った者はひとりもいない代わりに、コパルの香炉を持っている人物などが見られるため、テオティワカン地図化プロジェクトで知られる研究者ルネ=ミロンなどは、特別で友好的な外交関係があったのではないかと主張する。テオティワカンには、オアハカ地区(Oaxaca Barrio)と呼ばれるオアハカ独自の遺物が検出される場所があり、モンテ=アルバンでは、緑色黒曜石製品や薄手オレンジ土器(Thin Orange Ware)の壷、碗、円筒型三足土器、「フロレロ」、テオティワカン様式の土偶などが出土する。ただし、量的には多くはなく、貴族の住居や墓などからの出土に限られることから支配者層同士の交流であって、同盟関係を強化するための政略結婚もあったかもしれないがそれを確めるすべはない。以後のメキシコ中央高原で260暦の誕生日を人名とする慣習が見られることから宗教、天文学の情報が交換されたかもしれないが、さかんに交易がおこなわれているとは言い切れない。なお、モンテ=アルバンでは、テオティワカン人をはじめとする外国人の居住区は見つかっていない。この時期、オアハカ盆地では、盆地南部のセンターであるハリエサの人口が1万2000人ほどと推定され、モンテ=アルバン以外にもモンテ=アルバンと同じ様式の石彫が見られるなど盆地全体に人口が比較的均等に分布していたと考えられる。

モンテ=アルバンの衰退
モンテ=アルバンIIIb期(500年?750年)には、人口はモンテ=アルバンに集中し、2万5000人に達したと考えられ、規模は、6.5km2に拡大した。盆地全体の人口は、8万人ほどに減少したと考えられる。モンテ=アルバンの中央広場が完全に建物で囲まれたのがこの時期である。広場の出入り口が3ヶ所に限られ、防御性が増したことから、貧富の差が拡大し、庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられる。

モンテ=アルバンIV期(750年?1000年)には、モンテ=アルバンはすっかり衰退し、人口4,000人ほどの二流のセンターになりさがる。盆地全体では7万人に減少し、盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大の集落となったがモンテ=アルバンに見られる大建造物に囲まれた中央広場は築かれず、小センター同士の分裂状態になった。 なお、盆地南部のトラコルラ河谷のミトラがこのころから本格的に活動し始めたと考えられている。

このような状態であってもモンテ=アルバンの中央広場は放棄されずに維持されてきたと推定される。このことは、最近の発掘調査によって、モンテ=アルバンV期(1000年?1520年)に北基壇の建造物Bの最上層の建設が行われたことが判明したことからも裏付けられている。

2009年02月23日

ベトナム語 (Ti?ng Vi?t, チュノム: ?越)

ベトナム語 (Ti?ng Vi?t, チュノム: ?越) は、ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語である。キン語や安南語ともいい、ベトナムの少数民族の間でも共通語として話されるほか、中国と台湾など周辺諸国のキン族/ジン族、アメリカ合衆国、フランスなど在外ベトナム系移民によっても話される。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

東南アジア大陸部の言語は、通常インド文化の影響を強く受けているが、ベトナム語は例外的に日本語・朝鮮語・チワン語などと同様に中国語と漢字文化の強い影響を受けている。

現在のベトナムの北部は、秦によって象郡が置かれて以来、中国の支配地域となった。この地を含む華南は「百越」と総称される諸民族が住んでいた地域で、そのひとつが、現在のキン族の祖先であった。「ベトナム (Vi?t Nam)」は漢字で書けば「越南」であり、「越」は現在浙江省周辺にあった国の名でもあるが、広東省を指す「粤」と同音の類義語で、これらの南にある地域のために「越南」と呼ばれた。

しかし、系統的にはシナ・チベット語族やタイ・カダイ語族ではなく、オーストロアジア語族に属すると解することが一般的である。この説に従えば、話者数でクメール語(カンボジア語)を上回るオーストロアジア語族で最大の言語ということになる。また、中国語などの言語の影響を受け、声調言語になった。

表記法の歴史
上段がクォックグー(國語)による表記で、下段はチュノム(字喃)と漢字による表記である。「私はベトナム語を話します」という意味。中国の支配を受けていたため、ベトナムの古典や歴史的な記録の多くは漢文で書かれている。現代語をみても、辞書に載っている単語の 70% 以上が漢字語であり、漢字表記が可能である。対応する漢字が無い語については、古壮字などと同じく、漢字を応用した独自の文字チュノム(字喃)を作り、漢字と交ぜ書きをすることが行われた。しかし、1919年の科挙廃止、1945年の阮朝滅亡とベトナム民主共和国の成立などをへて漢字やチュノムは一般には使用されなくなった。公式な漢字の廃止は1954年であり、南北に分断したこの年にベトナム民主共和国紙幣における漢字使用は廃止されている。

これに取って代わったものは、17世紀にカトリックの宣教師アレクサンドル・ドゥ・ロードが考案し、フランスの植民地化以降普及したローマ字表記「クォックグー(Qu?c ng?、国語)」であった。植民地期にはクォックグーはフランスによる「文明化」の象徴として「フランス人からの贈り物」と呼ばれたが、独立運動を推進した民族主義者はすべてクォックグーによる自己形成を遂げたため、不便性と非効率性を理由にして漢字やチュノム文は排除され、クォックグーが独立後のベトナム語の正式な表記法となった。現在、クォックグーを公式の表記法とすること自体への異論はまったく存在しないが、高齢者や有識者の一部以外に漢文や漢字チュノム文を理解運用できる人材が少ないため、人文科学、特に歴史研究の発展に不安をもつ知識人の間には、中等教育における漢字教育の限定的復活論がある。

文字
現在の正書法であるクォックグーでは、ラテン文字と、それに補助記号をつけたものが用いられる。ただし、F, J, W, Z は用いられない。

アルファベット 文字 文字名 音価 IPA表記 hola
A a a アー [a?]
Ă ă á ア [a]
 â ? ア [?], [?]
B b bê, b? バ [?], [?b] (入破音)
C c xê, c? カ [k]
D d dê, d? ザ [z], 南: [j]
Đ đ đê, đ? ダ [?], [?d] (入破音)
E e e エ [?]
Ê ê ê エ [e]
G g giê, g? ガ [?]
[?] (前母音字 i, ê, e の前)
H h h?, h?t ハ [h]
I i i ng?n イ [i]
K k ca カ [k]
L l e-l?, l? ラ [l]
M m em-m?, m? マ [m]
N n en-n?, n? ナ [n]
O o o オ [?]
Ô ô ô オ [o]
? ? ? オー [??], [??]
P p pê, p? パ [p]
Q q quy, qu? クィー [k]
R r e-r?, r? ザ [z], 南: [?], [?]
S s ét-sì, s? サ [s], 南: [?]
T t tê, t? タ [t]
U u u ウ [u]
? ? ? ウ [?]
V v vê, v? ヴァ [v], 南: [j]
X x ích-xì, x? サ [s]
Y y i dài, i-c?-rét イー [i?]

ベトナム語表記の特徴は、語ではなく音節で分かち書きをすることである。これはベトナム語の単音節的な性質に合っている。

音韻
中国語と同様、声母(音節頭子音)と韻母(介母音+主母音+音節末子音/母音)、および声調からなる音節構造をもち、多くの音節はそれ自体で形態素となりうる点でいわゆる「単音節語」的な特徴を有する。注記したものをのぞき、すべての単母音、二重母音は主母音に立つことができる。

漢字音の対応は、中国語各方言・日本語・朝鮮語でほとんど変化のない(変化しても b など唇音のまま) [m] 声母字「面」「民」などが、d (北部方言の [z]) に変化し、半母音の [j] 声母字も摩擦が強まり、d (北部方言の [z])となっている。また、[s] の一部は [t] に変化しているのが特徴的で、現代中国語の sh ([?]) 声母字の一部は th ([t?]) に対応する。

母音
単母音 文字 音価 IPA表記 発音の特徴 備考
a アー [a?] 口を大きくあけてやや長めに
ă ア [a] 口を大きく開けて短く 単独で主母音に立たない
? アー [??], [??] アとオの中間的な感じでやや長めに
â ア [?], [?] アとオの中間的な感じで短く 単独で主母音に立たない
e エー [??] 口を大きく開けてやや長めに
ê エ [e] 口を軽くあけて、狭めに
i イ [i(?)] 唇を左右に強く引いて 音節末母音に立つ
y イー [i?] iの長母音 音節末母音に立つ
o オ [?] 口を大きく開けてやや長めに 音節末母音に立つ
ô オ [o] 口を丸めやや突き出して
u ウ [u] 唇を丸め口を突き出しやや長めに 音節末母音に立つ
? ウ [?] 唇を左右に強く引いてやや長めに

介母音 文字 音価 IPA表記 備考
o ウ [w] 主母音 a, e の前
u ウ [w] 主母音 y(i), ê の前

二重母音 文字 正書法上の制限 音価 IPA表記 発音の特徴
uô _C ウア [u?] ウは唇を丸く突き出してやや長めに、アはあいまいな感じで
ua _Ø
?? _C ウア [??] ウは唇を強く引いてやや長めに、アはあいまいな感じで
?a _Ø
iê C_C イア [i?] イは唇を強く引いてやや長めに、アはあいまいな感じで
ia C_Ø
yê V_C
ya V_Ø

子音
頭子音 文字 音価 IPA表記 備考
p パ [p] 借用語のみ。しばしばbと発音される
b バ [?], [?b] 声門を閉じて同時に開放
m マ [m]
n ナ [n]
s サ [?], [s] 南部ではそり舌音
x サ [s]
d ザ [j], [z]
gi ザ [?], [z]
r ザ [z], [?], [?] 南部ではそり舌音
t タ [t]
đ ダ [?], [?d] 声門を閉じて同時に開放
nh ニャ [?]
h ハ [h]
ch チャ [c]
tr チャ [t?], [c] [tr]と発音する方言もある
c カ [k] 下記以外
k カ [k] 前母音i, ê, eの前
q クワ [k(w)] 介母音 u を伴う場合
ph ファ [f]
v ヴァ [j], [v]
l ラ [l]
th タ [t?]
kh ハ [x]
g ガ [?]
gh ガ [?] 前母音i, ê, eの前
ng ガ [ŋ]
ngh ガ [ŋ] 前母音i, ê, eの前
Ø [?] 日本語と同じ

末子音 文字 音価 IPA表記 備考
p ッ(プ) [p?] 内破音
m ム [m]
t ッ(ト) [t?] 内破音
n ン [n]
ch ィッ(ク) [c?] 内破音

歴史的には、末子音が消滅した時、3 声調に分かれたとされる。ベトナム語の属するオーストロアジア語族のほとんどは声調を持たない。その後、頭子音の無声/有声に従って各声調が二つに分かれ、今日の 6 声調になった

語順はSVO型(主語-動詞-目的語)である。

修飾語が基本的に被修飾語の後に置かれる点は、オーストロ=アジア語族の言語をはじめとする東南アジアの多くの言語と共通である。たとえば、「越南社会主義共和国」は、"n??c C?ng hòa Xã h?i ch? nghĩa Vi?t Nam" (くに-共和-社会主義-越南)となる。

古典的類型論からみると孤立語的特徴をもっており、形態変化をせず、接辞をあまり用いず、統語的関係はもっぱら語順によって表されること、使役、受動を動詞に先行する前置詞句構文で表すこと、動詞に補語を後置して動作の方向や結果を表すこと、事物の存在を表すための特別の構文が存在することなどは、中国語(普通話)と共通する特徴である。一方、修飾語の後置(前述)や前置詞句が通例動詞の後に置かれることなどは中国語と異なり、東南アジアの諸言語と共通している。一人称複数の人称代名詞に聞き手を含む包括形 (chúng ta) と聞き手を含まない除外形 (chúng tôi) が存在することは、中国語、東南アジアの言語双方に共通する特徴である。

なお二人称代名詞は親族呼称で置き換えられており、また三人称形はほぼ二人称形からの派生形(「その」を表す ?y を後置する)で代用される。一人称形も中立形 (tôi) より聞き手との関係に即した親族呼称を用いる方が普通であり、したがって人称代名詞専用の語が存在しない。

語彙
歴史の節で述べたとおり語彙には漢字語が多いが、固有語の形態素も形態上は漢字語根と同様単音節から成り立ち、自立語としての造語力をもっており、現在でも漢字語、固有語双方の形態素を用いた語彙が並立している。ただし造語にあたっては、固有語の場合は文法に従って修飾成分を後置するのに対し、漢越語は中国語からそのまま借用したため、修飾成分は前置されたままである。

固有語による造語

máy bay: 飛行機(機械+飛ぶ 中国語「?机」の翻訳借用)
tên l?a: ロケット(槍+火 中国語「火箭」の翻訳借用)
nhà máy: 工場(家+機械)
漢字語による借用語

giáo s? 「教師」: 教授
th? t??ng 「首相」: 首相
また現代中国語の語彙と意味が異なる漢字語も多い。

ph??ng ti?n 「方便」: 手段。中国語では「?法」、「手段」という。「方便」 (fāngbiàn) は中国語で便利の意味。
văn phòng 「文房」: 事務室。中国語では「?公室」、「写字楼」という。「文房」 (wénfáng) は中国語で書斎の意味。
日本語の和語に漢字を当てた漢字語が和製漢語として借用されそのまま定着した例もある。この場合ベトナム語では中国語、朝鮮語の例と同様すべて漢字音で読まれる。

l?p tr??ng 立場
tr??ng h?p 場合
th? t?c 手続
このほか、フランス語や英語からの借用語もある。アルファベット使用言語からの借用(とりわけ固有名詞の借用)はローマ字採用によって容易になったが、もとのスペルを生かすか、ベトナム語の音韻構造にそったスペルを採用するかをめぐって現在まで議論が続いており、借用形の使用には混乱がみられる。/m/, /n/, /ŋ/, /?/ 以外の有声子音は音節末に立たないため、対応する無声子音(ない場合は調音部位の近い無声子音)に置き換えられる(フランス語の r を /k/ に音訳するなど)。

ga 駅 (fr: gare)
nhà băng 銀行 (fr: banque)
mít-tinh 会議 (en: meeting)
Gia-các-ta / Jakarta ジャカルタ

方言
ベトナム語の方言は、北部方言、中部方言、南部方言の三つに大別され、それぞれハノイ、フエ、ホーチミン市(サイゴン)を標準とする。このうち中部方言は他の両者と比べ音韻、語彙の両面にわたる差異がもっとも大きく、次いで北部と南部が対立する。これは、歴史的にハノイとフエが鄭氏と広南阮氏の分立以来の対抗の歴史を持っているのに対し、南部は18世紀末以降初めて領域に入った「新開地」であり、明の滅亡でベトナムに流入した中国人難民が南部に入植し、ベトナム人官吏の支配下で勢力を拡大してクメール系住民を駆逐し、1863年のフランスによるカンボジア保護国化まで陸続としてカンボジア領土を侵食して拡大した歴史があるためである。

フランスの植民地化は1958年からの南部占領(コーチシナ総督府の設置)に始まり、その中心となったサイゴンは「東洋のパリ」と称される大都市に成長し、1975年のサイゴン陥落までハノイに対立する政治的経済的中心であり続けたため、現在のベトナム語においてもハノイ方言とサイゴン方言とはほぼ同等の威信をもって並立しており、音声メディアにおいてもサイゴン方言はハノイ方言と並んで使用されている。

音韻
音韻面においては、クオックグーで弁別される特徴のうち、音節頭子音(声母)における対立がハノイ方言で摩滅しているのに対し、サイゴン方言ではこれを保存している(詳細は「文字」「子音」の各表を参照。ただし音節頭子音の弁別はハノイ以外の北部方言ではかなり保存されている)。これに対し、音節末子音(韻尾)と声調の対立はサイゴン方言で摩滅する傾向にあり、n, ng, nh がいずれも鼻音化しているほか、声調では thanh h?i と thanh ngã の区別がなくなっている。


nh ィン [?]
c ッ(ク) [k?] 内破音
c ッ(ク) [k?p?] 内破音。主母音 o, ô, u の後
ng ン [ŋ]
ng ン [ŋm] 主母音 o, ô, u の後
Ø [?]


[編集] 声調
ベトナム語には 6 種の声調があり、各音節は必ずいずれかの声調を持つ。ただし南部方言では thanh h?i と thanh ngã が合流し、5 声調になっている。

声調 番号 声調名 読み 記号 平仄 例 備考
1 thanh ngang タィンガン (なし) b?ng (平) a(ヘルプ・ファイル) 平らに
2 thanh huy?n タィンフイェン ` (グレイヴ) à(ヘルプ・ファイル) 残念そうに、低く下がる
3 thanh s?c タィンサッ(ク) ´ (アキュート) tr?c (仄) á(ヘルプ・ファイル) 激しく急上昇する
4 thanh h?i タィンホーイ ? (フック) ?(ヘルプ・ファイル) 低く下がって上がる
5 thanh ngã タィンガー ? (チルダ) ã(ヘルプ・ファイル) 急激に上がって声門を閉じ、上がる
6 thanh n?ng タィンナン ? (ドット) ?(ヘルプ・ファイル) はじめから緊張を伴い、下がって声門を閉じる


2009年02月06日

マヤ文明

マヤ文明(まやぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ユカタン半島などいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、エル=ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、繁栄した。古典期(A.D.300?900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。

しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった、など有力な説だけでも多数あるが、古典期後期(A.D.600?900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。

一方、古典期後期(A.D.600?900)からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。

標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。

先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)

後古典期(A.D.900?1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。

統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。

マヤ文明の特徴
マヤ文明の特徴として、以下のような点が挙げられる。

青銅器や鉄器などの金属器をもたなかった
生贄の儀式が盛んであった
車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった
牛や馬などの家畜を飼育しなかった
とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った
数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)
文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた
持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた
極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)
多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した
農業技術については、段々畑で作物をつくり、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。

数字は、点(・)を1、横棒(?)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。

マヤのカレンダー
天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていた。彼らが使っていたマヤ暦は1年を365.2420日と定めており、世界最高の水準であるとされた[1]。一方観測値ではなく暦[2]であり、これを持って最高水準の観測技術であるとの主張は誤り(つまり偶然の一致)であるとする研究者もいる。

一周期を260日とするツォルキン(暦)と呼ばれるカレンダー、 一年を365日とするハアブ(暦)と呼ばれるカレンダーがあり、 約52年で、ツォルキン暦とハアブ暦の組み合わせが一巡する。これをカレンダー・ラウンドという。

更に、長期暦(ロング=カウント;Long Count)と呼ばれる長周期のカレンダーがあり、

キン(1日)、
ウィナル(20キン)、
トゥン(18ウィナル、360キン)、
カトゥン(20トゥン、7200キン)、
バクトゥン(20カトゥン、144000キン)
で構成され、紀元前3114年から換算した日付けが石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれている。

なおニューエイジ関連の書物ではマヤ暦は2012年の冬至付近で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言が成就する、フォトンベルトに突入する時期としているものが多い。しかしフォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性にかけた予言である。 ただし、2012年の予言はフォトンベルトによるものであるというのは一部の人間によるもので あって、これとは異なる説を唱える者もいる。しかし世界最高水準とされているマヤ暦に狂いが生じている事が判明している為、暦の終了とこの予言に矛盾が生まれてしまう。

2009年01月22日

戦略上の重要課題となった

第二次世界大戦では、航空母艦は海軍の主役となった。それまで海軍の主力であった戦艦は緒戦で航空機の攻撃に太刀打ちできないことが実証され、以後は航空母艦搭載機による制空権の確保が、戦略上の重要課題となった。

日本海軍においても、大艦巨砲主義の終焉に伴い、艦政本部を中心に設計・建造方針においては空母を主軸とした機動艦隊(第一航空艦隊やその後続の第三艦隊)が戦力の中核をなした。しかし軍令・戦術方針においては、艦隊決戦至上主義や大艦巨砲至上主義が依然根強く、あくまでも戦艦中心の第一艦隊あっての機動艦隊という編成であった。戦艦中心編成の第一艦隊を廃し、空母等の機動力を主とした第一機動艦隊を創設したのは昭和19年3月だった。

戦争開始後の大建艦
戦時急造の空母として、日本では中型の艦隊型空母、イギリスでは低速小型の空母が建造された。

日本 - 雲龍型3隻(戦力化は出来ず、残る同型艦3隻は進水後建造中止。)
イギリス - コロッサス級10隻、マジェスティック級6隻、大戦中完成はコロッサス級の3隻のみ
また、第二次世界大戦では正規空母以外にも大量の空母が建造された。

巡洋艦や水上機母艦の船体をベースにしたもの
日本 - 千歳型2隻(水上機母艦)、祥鳳型2隻、龍鳳(いずれも潜水母艦)、伊吹(巡洋艦、未成)
アメリカ - インディペンデンス級9隻、サイパン級2隻(いずれも巡洋艦)
ドイツ - ヴェーザー(巡洋艦の艦体利用、未完成)
商船や客船をベースにしたもの
日本 - 飛鷹型2隻(中型で軽空母と同程度の航空機運用力を持ち、ミッドウェー海戦後は主に航空機輸送用として活躍)、他5隻
イギリス - 護衛空母5隻
アメリカ - 7種類76隻
イタリア - アキラ(通常の正規空母同等の性能を狙ったが未完成)

第二次世界大戦の海の戦いの主役は、従来の戦艦からより汎用性の高い空母に変わった。太平洋では日米海軍の空母が主戦力として活躍し、大西洋や地中海では空母を持つイギリス海軍がドイツやイタリアの艦船を攻撃した。主戦場以外の局面においても、アメリカが大量建造した護衛空母は、「空の隙間」をうめて対潜哨戒機の補助としてドイツのUボートに打撃をあたえ、連合国側のシーレーンを確保した。

とくに太平洋戦争は、日本の空母6隻から発進した航空機がオアフ島真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊の戦艦群を壊滅させた真珠湾攻撃から始まり、その後も日米の正規空母が正面から激突する海戦が度々生起した。

ミッドウェイ[1]では4隻の空母を失った日本海軍だが、その前後の珊瑚海海戦[2]や南太平洋海戦では勝利を得ていた。その後のマリアナ沖海戦[3]で日本側の衰勢が明らかになった。レイテ沖海戦[4]での日本空母部隊は、アメリカ軍の目を『マニラ湾に突入する栗田艦隊』から逸らせるための囮の役目しか果たせなくなっていた。

なお、終戦直前にはイギリスの空母も沖縄近海での作戦行動を行い、米空母同様に特攻機の攻撃を受けた。これらの海戦で、日米の空母の防御についての欠陥とイギリス空母の防御面での優秀さが明らかになった。すなわち日米の空母は1発の爆弾の命中で飛行甲板が使用不可能になるが、イギリスの空母は特攻機の命中を受けた数時間後には、飛行甲板が使用可能となっており、装甲甲板の有用性が実証された。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

太平洋戦争における日米の空母同士による海戦一覧

珊瑚海海戦(1942年5月)・・・日本の戦術的勝利、アメリカの戦略的勝利
ミッドウェー海戦(1942年6月)・・・アメリカの勝利
第二次ソロモン海戦(1942年8月)・・・アメリカの勝利
南太平洋海戦(1942年10月)・・・日本の勝利
マリアナ沖海戦(1944年6月)・・・アメリカの勝利
レイテ沖海戦(1944年10月)・・・アメリカの勝利

第二次世界大戦後、空母は艦載機のジェット化と核戦略による転換期を迎える。従来のレシプロ機が比較的低速、小型で空母艦載機の条件と相反するものではなかったのに対し、ジェット機はレシプロ機に比べ高速、大型であり従来の空母艦載機の条件とは一致せず、各国の海軍の頭を悩ませることとなる。

アメリカ海軍では冷戦が始まった1945年以後はソビエト本土への核攻撃能力が重要視され、比較的小型の航空機しか運用出来ない航空母艦の価値が低下したと考えられていた。海軍は海軍長官出身のジェームズ・フォレスタル国防長官の助けにより、核搭載可能な大型艦載機A-3Dの運用を前提とした排水量65,000tの大型空母ユナイテッド・ステーツの建造を計画するが、この大きさでもジェット機の運用は困難とされ、空軍の戦略爆撃機B-36との比較の結果B-36に軍配があがり、ユナイテッド・ステーツは起工から5日目に建造中止されてしまう。

即時展開可能な航空基地としての存在意義
空母への風当たりが強くなる中、1950年6月25日に北朝鮮が突如韓国へ侵攻し朝鮮戦争が勃発する。不意を衝かれた韓国は総崩れとなり北朝鮮はさらに南へ侵攻、急遽アメリカは西太平洋に展開していたエセックス級「ヴァリー・フォージ」を北朝鮮半島近海に進出させることを決定する。

途中ヴァリー・フォージはイギリス海軍コロッサス級「トライアンフ」と合流し北朝鮮近海に進出、開戦8日後の7月3日から作戦に入った。その後は空軍機の展開により対空戦闘の中心は空軍機に譲るが、停戦までの間に11隻のエセックス級空母が参戦し主に陸地攻撃を担当した。このうち1951年以後に参加したエセックスを含む4隻はジェット機対応の改装を済ませており、ジェット機による攻撃を行った(他の7艦はプロペラ機を搭載)。

朝鮮戦争の戦訓から、空母の任務として陸地攻撃が重視されるようになった。

2009年01月15日

LSDとサイケデリック文化

小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

1960年代LSDが大衆の間に広まると、LSD摂取時におこる幻覚に影響を受けたアート、サイケデリック・アートが起こった。

LSDを体験した画家180人の調査では、ほとんどの画家がLSD影響下で書いた自分の絵を「技術は損なわれているが、線が大胆になり、色が鮮やかになり、情緒的により拡張されたものである」と評価し、114人が「LSDを体験してからは自分の作品が色をより大胆に使用し、情緒的な深みを獲得し、より熱狂的に創作できるようになった」とLSDが自分の作品に影響を及ぼしたと評価した[59]。

サイケデリック・アートの中でも特にポスターが人気を集めた。このポスターは鮮やかで強烈な色彩、隣の色とぶつかる配色、余白を埋め尽くす装飾的な線やパターン(曼荼羅模様やペイズリー模様等をモチーフとした)、波うち、引き伸ばされて変形された文字等を特色とする。

もともとヘイト・アシュベリーに住んでいたヒッピー達が政治的、宗教的、精神的なメッセージを発信するために手作りでポスターを作ったのが始まりである。そのLSDによる幻覚に影響を受け、既成のポスターの手法に反逆したデザインは非常に斬新なものだった。

ポスターはタイム誌に「サンフランシスコ版アール・ヌーヴォー」と評され、爆発的な人気を集めた。そしてやがてそれらはポスターからファッション(当時の百貨店にはペイズリー柄やサイケデリック風の色彩を施された商品で溢れていた)等へと広がっていき、当時、西海岸で盛んであった前衛映画にも大きな影響を与えた[60]。

ヒッピーは、権力に抵抗する若者の典型的な例として捉え、ファッションとしては長髪にビーズの首飾りをして、極彩色の衣装を身に付け、LSDやマリファナをやっていたが、当初の意味を失い、商業主義的なものに取り入れられていった。「サイケデリックブーム」をマスコミの報道で知った若者達は、サイケデリックを台頭した若者文化のファッションとして受け止め、そしてスリルを求めてヘイト・アシュベリーへと向かった。こうしたサイケデリック・アートやヘイト・アシュベリーへの好奇の目がヘイト・アシュベリーの治安をさらに悪化させ、体制側やマスコミからの攻撃は激しさを増すことになった[61]。

日本でも1967年頃から「サイケ」として流行語となり、日本の若者達もアメリカの若者達に倣い長髪にビーズの首飾りをし、極彩色の衣装を身につけ、ストロボや轟音、多色光線を駆使したディスコ等に屯し、日本各地でアメリカに倣ったロック・フェスティバルを開催した。

しかし、これらはアメリカにおいて「サイケデリック」が知られるようになってから起こったブームのように形だけの適応に過ぎず、日本にはアメリカにおけるようなLSD体験やそれに伴う社会的な断絶は存在していなかった。そのため「サイケ」は単なる流行として非常に短命に終わり、1970年代中頃にはすっかり忘れ去られたものとなってしまった[