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4カ国に分割占領された

ポーランド侵攻作戦の直後、ポーランドはナチス・ドイツ、ソヴィエト連邦、リトアニア、スロヴァキアの4カ国に分割占領された。ドイツは占領した東部ポーランド領の一部をドイツ本土に併合し、残りの占領地域をいわゆるポーランド総督府領として支配した。ソヴィエトは西部ポーランド領をウクライナ共和国と白ロシア共和国に編入、リトアニアはヴィリニュスを、スロヴァキアは前年のミュンヒェン会談によりポーランドに割譲されたテッシェン地方を再び自国領に取り戻した。

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このようにしてポーランドはおもにドイツとソ連に分割され、ドイツ軍とソ連軍はポーランドの土地において互いを迎えあった。9月28日、前月に締結されたモロトフ・リッベントロップ協定の秘密議定書を修正する新しい秘密議定書がドイツとソ連の間で交わされ、リトアニア領全域をドイツでなくソ連の支配下に置くこと、ポーランドを分割する境界線はドイツのために東のブーク川まで移動することが決められた。ブレスト=リトフスク(現ポーランド名ブジェシチ)市では、ドイツ軍が新しい独ソ境界線の西へと撤兵する前に、ソ連軍とドイツ軍の両軍が勝利パレードを行った。

ポーランド侵攻では約65,000人のポーランド兵士が戦闘の犠牲となり、約680,000人が捕虜にされた(そのうちドイツ軍はとソ連軍はそれぞれ少なくとも420,000人、240,000人を捕虜にした)。ポーランド将兵のうち約120,000人はルーマニア橋頭堡と呼ばれる地域を通って当時中立国であったルーマニアとハンガリーへ脱出し、約20,000人はラトビアとリトアニアへ脱出した。脱出に成功した将兵の大多数は最終的にフランスやイギリスへ渡った。ポーランド海軍艦艇のほとんどはイギリスへうまく抜けることに成功した(北京作戦Plan Peking)。ポーランド軍に対してドイツ軍の犠牲は比較的少なかった(戦闘での死者数は約16,000人と見積もられている)。しかしその一方でポーランド侵攻作戦に参加した戦車などのドイツ軍装甲戦闘車両の30%以上が失われたのも事実で、これが理由でドイツは西欧諸国へ即時攻撃する計画を放棄せざるを得なかった。

ドイツ、ソ連、ポーランドの西側同盟諸国のどの国も、ポーランドで行われた戦争が規模においても被害においても第一次世界大戦を凌駕する大規模な戦争につながるとは予想していなかった。1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、ヒトラーはフランスなどの西側諸国を攻撃しようとはしていなかった。ヒトラーがイギリスとフランスとの平和交渉がもはや無益だと判断するまでは数ヵ月かかった。日本がヒトラーと同盟してアメリカを攻撃したり、ソ連とアメリカがヒトラーと日本に対抗する同盟を結んでヨーロッパと太平洋それぞれにおける戦争が結合し本当の世界大戦にまで発展するのは何年も先の話だった。1939年当時の政治家や将軍たちには見通せなくても歴史的にみれば明らかなことは、このポーランド9月戦争(ポーランド侵攻)こそがヨーロッパにおける第二次世界大戦の始まりであり、それが1937年に始まった日中戦争や1941年に始まった太平洋戦争と結びついて、後に本当の意味での第二次世界大戦として知られるようになった大戦争に発展していったことである。

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2009年04月27日 09:33に投稿されたエントリーのページです。

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